時には、がっつり

ふだんはおいしいものを少しずつ派だけど…

木曾の最期(平家物語)seek deeply! もっと深くへ

 

【あらすじ】

日本大百科全書』から引用します。

《 その粗筋を述べると、「祇園精舎(ぎをんしゃうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎゃうむじゃう)の響(ひびき)あり、沙羅双樹(しゃらさうじゅ)の花の色、盛者必衰(じゃうじゃひっすい)の理(ことはり)をあらはす」の冒頭句で知られる序章に始まり、前半部(巻1~6)では、平家一門の興隆と栄華、それに反発する反平家勢力の策謀などが語られる。刑部卿(ぎょうぶきょう)忠盛の昇殿によって宮廷社会に地歩を築いた平家は、清盛の世になって大きな飛躍をみせ太政大臣の栄位に上るが、権勢を掌握した清盛はやがて世を世とも思わぬ悪行の限りを尽くすようになる。そうした平家のふるまいは人々の反発を招き、その反感がやがて平家打倒の陰謀として結集されて行く。巻1後半から巻3にかけて展開する鹿ヶ谷(ししがたに)陰謀の物語、巻4の1巻を費やして語られる源三位頼政(げんざんみよりまさ)の挙兵譚(たん)がそれで、いずれも事前に発覚して惨めな失敗に終わるが、頼政の奉じた以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)が諸国の源氏の決起を促し、源頼朝(よりとも)、木曽義仲(きそよしなか)の挙兵となり、その騒然とした情勢のなかで熱病にかかり清盛が悶死(もんし)を遂げる。



 後半部(巻7~12)は、源氏勢の進攻と源平合戦、そして平家の滅亡を内容とするが、まず信濃(しなの)に兵をあげた木曽義仲が北陸から都に向かって快進撃を開始、この木曽勢の進攻によって平家はついに都を捨てて西海へ逃れ去る。しかし、都入りした義仲はその勢威を維持することができず、後白河(ごしらかわ)法皇との確執から東国の頼朝の介入を招き、東国勢の猛攻を受けてあえなく滅び去る。一方、木曽義仲を撃ち破った東国勢は、時を移さず一ノ谷に拠(よ)る平家の攻略に立ち向かう。ここから本格的な源平の対戦となるが、一ノ谷、屋島と敗北を重ねた平家は長門(ながと)の壇ノ浦に追い詰められ、幼帝安徳(あんとく)天皇は祖母二位尼(にいのあま)に抱かれて入水(じゅすい)、一門の大半はここで自決する。物語はこのあと、捕虜となった宗盛(むねもり)や平家の遺児たちの末路を語り、平家の嫡流6代の処刑を描いて、「それよりしてこそ平家の子孫は永く絶えにけれ」と結ぶが、一方流系統の語り本は、戦後洛北(らくほく)の大原に遁世(とんせい)した建礼門院(けんれいもんいん)(清盛の娘で安徳天皇の生母)の消息を伝える「灌頂巻(かんじょうのまき)」を特立、その求道と鎮魂の祈りを通してこの悲劇的な物語に仏教文学としての締めくくりを与えている。

[梶原正昭] 》

 

 

 

 

 

 

【どのように受容され継承されていったのか?】

 

 これについても『日本大百科全書』から引用します。

 

《 本来は琵琶(びわ)という楽器の弾奏とともに語られた「語物(かたりもの)」で、耳から聞く文芸として文字の読めない多くの人々、庶民たちにも喜び迎えられた。庶民の台頭期である中世において、『平家物語』が幅広い支持を得ることができたのもこのためで、国民文学といわれるほどに広く流布した原因もそこに求めることができる。『平家物語』をこの「語物」という形式と結び付け、中世の新しい文芸として大きく発展させたのは、琵琶法師とよばれる盲目の芸能者たちであったが、古い伝えによると『平家物語』ばかりでなく、当初は『保元(ほうげん)物語』や『平治(へいじ)物語』も琵琶法師によって語られていたらしく、また承久(じょうきゅう)の乱を扱った『承久記』という作品もそのレパートリーに加えられていたといい、これらを総称して「四部の合戦状」とよんだ。しかし他の軍記作品は語物としては発展せず、『平家物語』がその中心とされるようになり、やがて琵琶法師の語りといえば『平家物語』のそれをさすようになっていった。この琵琶法師による『平家物語』の語りのことを「平曲(へいきょく)」というが、この平曲が大きな成熟をみせるのは鎌倉時代の末で、この時期に一方(いちかた)流と八坂(やさか)流という二つの流派が生まれ、多くの名手が輩出した。

 

 

 平曲とはどういうものか、次の動画を見てください。

 

 

 

 

 ずいぶんスロー・テンポだなと思ったでしょう。むしろ、現代が映像も、人々の話し方や動作も、そもそも、時間の流れ方が早すぎるともいえます。結果を効率的かつ短時間に求める産業社会、そのことを可能にする科学技術の進歩と社会システムが背景としてあるのでしょう。

 

 現代の饒舌すぎることば、鮮明で高速度で切り替わる映像に、中身が伴っているのかと疑問に思うことがあります。

 

 動画どころか画像などもちろんなく、文字を理解し高価な紙に書写された書物を読めるのはごくごく例外的な人であった時代、琵琶法師が琵琶を奏でながら語ることばを聴きながら、ことば一つ一つに集中し、想像力をはたらかせ、風景や人物や出来事をありありと思い浮かべ、自分もその場面に生きているかのように聴き入っていた、名もなき人々。そんな人々にできるだけ近づいて、その人々自身を体験するように読むと、「平家物語」をより深く味わうことができるのではないでしょうか。

 

 

【登場人物について】

 

源義仲… 平安時代末期の武将。2歳のとき父が源義平に殺され たのち,乳母の夫中原兼遠に木曾で育てられ,木曾次郎と称した。勇猛で射に長じた。1180 年以仁王 (もちひとおう) の令旨に応じて挙兵し,その後平家軍を打ち破り、追撃して京都を占領するが、軍隊に統制がなく京都の人心を失い,また、後白河法皇の策謀に翻弄され、源義経・範頼の率いる追討軍のため近江粟津(おおみあわず)で敗死。

 三百余騎をもって最後の戦をいどむ。武将として比類ない勇猛さの持ち主。反面、情深い人。巴を愛するゆえに、自らの面目を保つためにと巴を説得して逃がしてやる。

 そして、乳兄弟の今井に対しては、弱気・弱点をさらけ出すほど親しく、だだをこねるように一所に死にたいと言う弱みももつ人間として描かれている。

 

今井兼平… 父は木曾(源)義仲 の養父で,兼平は義仲とは乳兄弟(ちきょうだい)。1180 年9月,義仲の挙兵時から側近として活躍,木曾四天王の一人に数えられた。義仲に従って入京,1184 年1月,範頼,義経の軍が京都に迫ると,義仲の命で瀬田を守ったが敗れ,帰京の途中,粟津で義仲に自害をすすめたのち,戦死。

 

 もはやこれまでと悟った兼平は、弱音をはく義仲を励まし、乳兄弟の主君として、深い思いやりと礼節を尽くし厳しくしかも冷静に、自害をして立派な最期を遂げさせようとする。

 

★ 義仲と兼平、武士像と君臣の典型あるいは理想として語られ、平曲を聴いた聴衆もそう受け取って感動したのでしょう。武人と君臣のあるべき在り方として影響を与えていったといえます。

 のちに武士道の源となるものでもあり、さらに、潔さを尊び世間に恥じることはできないなど、日本人全体の行動規範の源ともなっていると思います。

 

 

巴御前… 武勇をもって知られる平安時代末期の女性。源義仲の妾(めかけ)。中原兼遠の娘。義仲に従って各地に転戦し功を立てた。1184 年源頼朝の命を受けた源範頼義経軍に宇治,勢多で敗れ,近江粟津に逃れた義仲に説得されて逃げ延び,のち尼となり,越後に移り住んだと伝えられる。

 

 美しい女性であり、かつ、武勇にも卓越し戦に帯同するキャラクター、日本文学にもまれな登場人物、興味惹かれます。

 

 

 

【名のりについて】

 

 「昔は聞きけむものを、木曾の冠者、今は見るらむ、左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲ぞや。甲斐の一条次郎とこそ聞け。互ひによい敵ぞ。義仲討つて 兵衛佐に見せよや。」

 

 

 敵と近距離になり戦闘が始まる直前に、おのおの名のりをするのが作法であった。それは、敵に対しては自己を誇示するものであり、味方に対しては自らの武功示すためのものでもあった。

 

 

甲冑について】

 

 木曾左馬頭、その日の装束には、赤地の錦の 直垂に、唐綾威の鎧着て、鍬形打つたる >甲の緒締め、厳物作りの大太刀はき、石打ちの矢の、その日のいくさに射て少々残つたるを、頭高に負ひなし、滋籐の弓持つて、聞こゆる木曾の鬼葦毛といふ馬の、きはめて太うたくましいに、金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。

 

 

 義仲の名のり。勇壮で華麗な姿が、鮮明に思い浮かぶよう、無駄な言葉を排し簡潔鮮明に語られている。

 

 日本の甲冑は源平時代に最高度に発達したという。荘重優美をきわめた。死を恐れず武功をあげるー戦場は武人の晴れ舞台。

 

【チャイナとの違い】

 

 項羽と劉邦の抗争については、高校漢文で必ずと言っていいほど原文でふれます。また、歴史好きは、各種の小説や歴史書で詳しく知っています。しかし、項羽の最期の次の個所はなぜだかカットされています。項羽が「自刎而死」したあとです。

 

王翳取其頭,餘騎相蹂踐爭項王,相殺者數十人。最其後,郎中騎楊喜,騎司馬呂馬童,郎中呂勝、楊武各得其一體。五人共會其體,皆是。故分其地為五:封呂馬童為中水侯,封王翳為杜衍侯,封楊喜為赤泉侯,封楊武為吳防侯,封呂勝為涅陽侯。

 

 

 自害した項羽の遺体を、なんと、仲間同士で殺し合いをして奪い合い、結局、五分割して持ち帰り、その手柄で領地を与えられそこの大名(領主)になったのだと書かれています。漢王朝の正式の歴史書史記」に語られているのです。

 

 動乱が常であり(現代でも年間20~30万件の暴動が発生しています)、かつ、敵の手に落ちたら、数万数十万人が住む城郭都市の中では、虐殺、略奪、レイプ、拉致(農耕奴隷や歩兵にするため)などが常であった大陸の常識と、穏やかな気候と食糧事情に比較的恵まれていた島国のそれとは異質だなと思わされます。

 

 

 脱線しますが、背景となる文化が異質なのに、倭奴・小日本人たちも同じことをやっていたはずと思い込んで、残虐な日本軍・日本人というフェイク・ヒストリーを国民・人民に刷り込み、記念館などの施設をつくり、プロパガンダを繰り返している隣国があります。両国の国民に敵対心や憎悪心を煽り立て、一党独裁を正当化したり、政権維持・浮揚に利用ことは、結局、両国の国民を不幸にしていることは言うまでもありません。もちろん、事実は事実として直視しなければいけません。

 

 私たちは、正確に深く知り、論理的に考える力を養わなければなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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